
元プロ野球選手で、タレントや俳優としても活躍した板東英二さん。
テレビでは親しみやすい話し方や、ゆで卵好きのキャラクターで知られていましたが、若い頃は高校野球史に残る投手でした。
徳島商業高校3年生だった1958年夏の甲子園では、全6試合を一人で投げ抜き、大会通算83奪三振を記録。中日ドラゴンズ入団後も11年間で通算77勝を挙げています。
2026年7月22日に86歳で亡くなったことが発表され、タレントになる前の野球人生にも再び注目が集まりました。
板東英二さんの若い時のプロフィールをはじめ、甲子園記録、魚津高校との延長18回、中日時代の現役成績や引退理由を紹介します。
プロ野球・中日ドラゴンズの元投手でタレントの板東英二さんが22日、亡くなったとオフィシャルウェブサイトで発表されました。86歳。写真は1984年、南海ホークスのドカベンこと香川伸行選手に声をかける板東さんです。
— 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) July 28, 2026
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板東英二の若い頃がすごい!野球選手時代のプロフィール
板東英二さんは、徳島商業高校のエースとして夏の甲子園準優勝を経験し、卒業後に中日ドラゴンズへ入団した右投げの投手です。
日本野球機構の公式記録では、身長170センチ、体重70キロ。1959年から1969年まで中日一筋でプレーしました。(NPB.jp 日本野球機構)
板東英二の若い時のプロフィール
名前:板東英二
読み方:ばんどう・えいじ
生年月日:1940年4月5日
身長:170センチ
体重:70キロ
投打:右投げ右打ち
出身高校:徳島県立徳島商業高等学校
所属球団:中日ドラゴンズ
プロ在籍期間:1959年~1969年
ポジション:投手
板東英二さんは、旧満州で生まれた後、終戦後に徳島県へ移りました。
徳島商業高校では剛速球を武器に三振を重ね、1958年夏の甲子園で全国に名前を知られるようになります。公式プロフィールにも、同大会で準優勝し、83奪三振を記録した経歴が掲載されています。(TBS NEWS DIG)
タレントになる前は中日ドラゴンズの投手
板東英二さんをテレビタレントとして知った世代にとっては、元野球選手だったこと自体が意外に感じられるかもしれません。
しかし、中日ドラゴンズでは通算435試合に登板しています。
先発投手として2桁勝利を挙げただけでなく、現役中盤以降は救援投手としても活躍しました。公式戦の通算投球回は1220回3分の2に及びます。
板東英二の甲子園記録は大会通算83奪三振
板東英二さんの若い頃を象徴する成績が、1958年夏の甲子園で記録した83奪三振です。
徳島商業高校のエースとして決勝までの全6試合、合計62イニングを一人で投げました。83奪三振は、夏の甲子園における1大会最多奪三振として現在も記録されています。(日刊スポーツ)
徳島商業高校3年で夏の甲子園に出場
板東英二さんは高校3年生だった1958年、第40回全国高等学校野球選手権大会に徳島商業の投手として出場しました。
初戦となった2回戦の秋田商業戦で17三振を奪うと、3回戦の八女高校戦でも15奪三振を記録します。
決勝まで一人でマウンドを守り続け、徳島商業を準優勝へ導きました。
魚津高校戦で延長18回を一人で投げた
甲子園史に残る試合となったのが、準々決勝の徳島商業対魚津高校戦です。
徳島商業の板東英二さんと、魚津高校の村椿輝雄さんによる投手戦は、延長18回を終えても0対0。大会規定により引き分けとなり、翌日に再試合が行われました。
板東英二さんは延長18回で216球を投げ、25個の三振を奪っています。この試合は、延長18回引き分け再試合の規定が甲子園で初めて適用された試合でもありました。(日刊スポーツ)
魚津高校との再試合にも先発
延長18回を投げた翌日、板東英二さんは魚津高校との再試合にも登板しました。
再試合では9三振を奪い、徳島商業が3対1で勝利。その後も準決勝、決勝と連投しています。
現在の高校野球では投手の負担を考えた起用が行われていますが、当時はエースが一人で連日投げるチームも珍しくありませんでした。
板東英二さんは後年、延長18回について、ナイターになって涼しく、当時はあまり疲れを感じていなかったと振り返っています。
83奪三振の試合別内訳
板東英二さんが1958年夏の甲子園で奪った三振の内訳は、次の通りです。
・2回戦・秋田商業戦:17奪三振
・3回戦・八女高校戦:15奪三振
・準々決勝・魚津高校戦:25奪三振
・準々決勝再試合・魚津高校戦:9奪三振
・準決勝・作新学院戦:14奪三振
・決勝・柳井高校戦:3奪三振
・大会通算:83奪三振
準決勝までの5試合で80奪三振を記録しました。
4連投となった柳井高校との決勝では疲労もあり、0対7で敗れましたが、83奪三振という記録を残して準優勝しています。
板東英二の中日ドラゴンズ時代の成績
板東英二さんは徳島商業高校を卒業した1959年、中日ドラゴンズへ入団しました。
甲子園の記録保持者として注目を浴び、ルーキーイヤーから一軍で33試合に登板しています。先発と救援の両方を経験し、11年間にわたって中日の投手陣を支えました。
入団1年目から33試合に登板
1959年の現役成績は、33試合に登板して4勝4敗、防御率3.15でした。
投球回は97回で、69三振を奪っています。高卒1年目から一軍で約100イニングを投げたことからも、期待の大きさがうかがえます。
2年目の1960年には44試合に登板し、初めて2桁となる10勝を記録。防御率も2.62まで向上しました。
1961年は12勝と4完封
1961年には47試合に登板し、12勝10敗、防御率2.60を記録しました。
この年は193回3分の1を投げ、8完投、4完封。板東英二さんの現役時代で最も多くのイニングを投げたシーズンです。
甲子園では奪三振の多さが注目されましたが、プロ入り後は打者を抑えながら試合を作る先発投手として結果を残しました。
救援投手として3年連続2桁勝利
板東英二さんは現役中盤から、救援で登板する機会が増えていきます。
特に1965年から1967年までの成績は安定していました。
・1965年:55試合、12勝7敗、防御率2.25
・1966年:60試合、13勝5敗、防御率2.57
・1967年:51試合、14勝6敗、防御率2.55
1967年の14勝は、板東英二さんのシーズン最多勝利です。
現在のようにセーブが公式記録になる前の時代でしたが、試合途中や終盤から登板して勝利へつなげる役割を担っていました。
板東英二の通算成績は77勝65敗
日本野球機構が公表している板東英二さんの通算成績は、次の通りです。
登板:435試合
勝利:77勝
敗戦:65敗
勝率:.542
投球回:1220回3分の2
奪三振:748
完投:21
完封:7
防御率:2.89
11年間で防御率2点台を記録し、オールスターゲームにも3回出場しています。
「甲子園で活躍したものの、プロでは通用しなかった選手」ではありません。
77勝という数字に加え、先発と救援の両方で435試合に登板したことが、プロ野球選手としての実績を物語っています。
板東英二の引退理由は?29歳で現役を終えた
板東英二さんが中日ドラゴンズで最後にプレーしたのは1969年です。
1967年には自己最多の14勝を挙げましたが、1968年以降は登板数が減少。最後の2年間は、それまでのような成績を残せませんでした。
1968年から登板数が減少
1968年の板東英二さんは18試合に登板し、1勝4敗、防御率6.55でした。
1969年は16試合の登板で0勝1敗、防御率3.68。中日での現役生活を終えた時は29歳でした。
プロ入り後に多くの試合で投げてきたことや成績の低下が重なり、球団の構想から外れた形となりました。
本人は後年「解雇された」と語った
板東英二さんは2013年の会見で、プロ野球へ入って夢がかなったものの、その後「解雇された」と振り返っています。
本人の言葉からは、自ら十分に納得してユニフォームを脱いだというより、球団を離れざるを得なかった思いが残っていたことが伝わります。
引退後の1970年にはCBCの野球解説者となり、野球評論やテレビの世界へ進みました。
板東英二の若い頃の画像はどこで見られる?
板東英二さんの若い頃の画像には、徳島商業高校のユニホームで投げる甲子園時代と、中日ドラゴンズの投手としてマウンドに立つ写真があります。
日刊スポーツの高校野球特集では、1958年夏の甲子園で力投する姿が掲載されています。週刊ベースボールONLINEやスポーツ専門メディアでも、中日時代の投球フォームを写した写真を見ることができます。
甲子園時代は豪快な投球フォーム
甲子園時代の写真では、大きく腕を振り、体全体を使って投げ込む姿が残っています。
板東英二さんは後年、当時の投球について、ほとんどが直球だったと語りました。速球を中心に相手打者へ向かい、6試合で83三振を奪ったことになります。
中日時代は先発から救援へ
中日ドラゴンズ時代の若い画像では、投手としてマウンドに立つ真剣な表情が印象的です。
入団当初は先発として多くのイニングを投げ、その後は救援で登板する機会が増えました。
テレビで見せていた明るいキャラクターとは異なる、勝負に集中する若い時の姿が残されています。
坂東英二の成績・若い頃は誤記?正しくは板東英二
板東英二さんの名字は、「坂東英二」と書かれることがあります。
読み方はいずれも「ばんどう」ですが、日本野球機構の公式記録や本人の公式プロフィールで使われている正しい表記は「板東英二」です。
正しい表記:板東英二
誤記されやすい表記:坂東英二
「坂東英二 成績」「坂東英二 若い頃」「坂東英二 若い時」と書かれた情報も、多くの場合は徳島商業高校、中日ドラゴンズで活躍した板東英二さんを指しています。
板東英二の若い頃は甲子園と中日で活躍した名投手
板東英二さんは、徳島商業高校3年生だった1958年夏の甲子園で、全6試合を一人で投げ、大会通算83奪三振を記録しました。
魚津高校との準々決勝では延長18回、216球を投げて25三振を奪い、翌日の再試合にも登板しています。
中日ドラゴンズでは1959年から1969年までプレーし、通算435試合、77勝65敗、防御率2.89。1967年には自己最多の14勝を挙げ、オールスターにも3回出場しました。
若い頃の板東英二さんは、甲子園だけのスターではなく、プロ野球でも先発と救援の両方で長く活躍した投手です。
引退後は野球解説者を経て、司会者、タレント、俳優として新たな道を切り開きました。テレビで見せた親しみやすい姿の背景には、高校野球史に残る記録と、11年間にわたるプロ野球人生がありました。

