
「赤いハンカチ」「二百三高地」「宇宙戦艦ヤマト」など、幅広いジャンルの作品を手掛けた映画監督・舛田利雄(ますだ・としお)さんが亡くなりました。
舛田利雄さんは2026年8月26日午前11時1分、東京都内の病院で死去。98歳でした。死因は老衰と公表されています。訃報は9月24日、日本映画監督協会から発表されました。
長女で女優の舛田紀子さんによると、晩年は病気で入退院を繰り返していたものの、そのたびに回復して退院していたといいます。
舛田利雄さんは石原裕次郎さん主演作を数多く監督したほか、日米合作「トラ・トラ・トラ!」、「宇宙戦艦ヤマト」「二百三高地」「社葬」などでも知られる日本映画界を代表する映画監督の一人です。
ここでは、舛田利雄さんの死因や晩年の病気、98歳までの経歴、代表作や功績、妻・子供など家族構成について紹介します。
舛田利雄が98歳で死去|死因は老衰
舛田利雄さんが亡くなったのは、2026年8月26日です。
日本映画監督協会が9月24日に訃報を発表し、日刊スポーツや共同通信、テレビ朝日など複数の主要メディアが相次いで報じました。
死因については「老衰」と明らかにされています。
舛田利雄は2026年8月26日に東京都内の病院で死去
共同通信の報道によると、舛田利雄さんは8月26日午前11時1分、東京都内の病院で亡くなりました。
1927年10月5日生まれのため、亡くなった時の年齢は98歳です。日本映画監督協会の公式プロフィールにも、生年月日は1927年10月5日と記載されています。
葬儀・告別式はすでに近親者で執り行われました。
テレビ朝日の報道では、お別れの会などを開く予定もないと伝えられています。
舛田利雄の死因は老衰
舛田利雄さんの死因は、老衰と発表されています。
そのため、特定の病気が直接の死因として公表されたわけではありません。
日刊スポーツや共同通信も「老衰のため東京都の病院で死去」と報じており、98歳での訃報となりました。
舛田利雄は病気だった?晩年は入退院を繰り返していた
死因は老衰とされていますが、舛田利雄さんは亡くなる前の数年間、病気による入退院を繰り返していました。
この晩年の様子については、長女の舛田紀子さんがテレビ朝日の取材で明らかにしています。
晩年は病気で入院と退院を繰り返していた
舛田紀子さんによると、父・利雄さんはここ数年、病気で何度も入退院していたといいます。
ただ、そのたびに回復して自宅へ戻り、周囲を驚かせていたそうです。亡くなる約10日前には、自身の体力の変化を感じ取ったような言葉も口にしていたと伝えられています。
具体的な病名については、今回の訃報や日本映画監督協会の発表では明かされていません。
「病気で入退院していた」という事実は長女から語られていますが、死因として発表されたのはあくまで老衰です。
特定の病気が死因だったとの発表はない
高齢で入退院を繰り返していたことから、どのような病気を抱えていたのか気になる人もいると思います。
ただ、テレビ朝日の報道でも病名までは紹介されておらず、長女も具体的な疾患については触れていません。
現時点で公表されているのは、晩年に病気で入退院を繰り返していたことと、98歳で老衰のため亡くなったことです。
舛田利雄のwiki経歴|神戸市出身で大阪外国語大学を卒業
舛田利雄さんは兵庫県神戸市出身の映画監督・脚本家です。
戦後の日本映画界に入り、日活黄金期のアクション映画から戦争映画、アニメ、アイドル映画、テレビドラマまで数多くの作品を手掛けました。
日本映画監督協会のプロフィールでは、石原裕次郎さん主演作25本を含む約60本を日活時代などに監督した経歴が紹介されています。
舛田利雄のプロフィール
舛田利雄さんの主なプロフィールは次の通りです。
・名前:舛田利雄
・読み方:ますだ としお
・生年月日:1927年10月5日
・死去:2026年8月26日
・年齢:98歳
・出身地:兵庫県神戸市
・職業:映画監督、脚本家
・出身大学:大阪外国語大学ロシア語科
・主な所属歴:新東宝、日活、フリー
・主な受章:紫綬褒章、勲四等旭日小綬章
日本映画監督協会によると、大阪外国語大学ロシア語科を卒業し、新東宝、日活を経て映画監督となりました。
大阪外国語大学でロシア語・ロシア文学を学ぶ
舛田利雄さんは大阪外国語大学、現在の大阪大学外国語学部につながる学校でロシア語を学びました。
共同通信は、大学でロシア文学を学び、映画の道を志して上京したと伝えています。
兵庫県立美術館の「兵庫ゆかりの作家」資料では、1944年に兵庫県立第一神戸中学校、現在の兵庫県立神戸高校を卒業した経歴も紹介されています。
新東宝から日活へ移り映画監督に
大学卒業後は映画業界へ入り、1950年に新東宝で助監督となりました。
1954年に日活へ移籍し、助監督として経験を積んだ後、監督へ昇進しています。日本映画監督協会は1957年に監督昇進と記載し、主要報道では1958年公開の「心と肉体の旅」を監督デビュー作として紹介しています。
その後、日活を代表する娯楽映画監督の一人として数々のヒット作を生み出していきました。
舛田利雄と石原裕次郎の代表作|「錆びたナイフ」「赤いハンカチ」
舛田利雄さんの経歴を語るうえで欠かせないのが、石原裕次郎さんとのコンビです。
日活ではアクション映画や青春映画を数多く手掛け、石原裕次郎さん主演作品だけでも25本に関わったと日本映画監督協会が紹介しています。
「錆びたナイフ」で石原裕次郎とタッグ
1958年公開の「錆びたナイフ」は、舛田利雄さんの初期を代表する作品です。
石原裕次郎さん、小林旭さん、宍戸錠さんらが出演し、舛田利雄さんは監督と脚本を担当しました。
兵庫県立美術館の資料では、この作品以降、石原裕次郎さん主演映画を数多く手掛けるようになったと紹介されています。
「赤いハンカチ」は代表作の一つ
1964年公開の「赤いハンカチ」も、舛田利雄さんと石原裕次郎さんを代表する作品です。
石原裕次郎さんのほか、二谷英明さんらが出演し、舛田利雄さんが監督・脚本を担当しました。
訃報を伝えたテレビ朝日、日刊スポーツ、共同通信はいずれも「赤いハンカチ」を代表作として挙げています。
舛田利雄の代表作|「トラ・トラ・トラ!」「宇宙戦艦ヤマト」「二百三高地」
舛田利雄さんの活動は、日活アクションだけにはとどまりませんでした。
ハリウッド映画、戦争映画、アニメ、アイドル映画、企業ドラマなどジャンルを問わず作品を手掛けた点も大きな特徴です。
「トラ・トラ・トラ!」で日本側の監督を担当
1970年公開の日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」では、黒澤明監督の降板後、深作欣二監督とともに日本側の演出を担当しました。
真珠湾攻撃を題材とした大作で、舛田利雄さんが日活の枠を越えて大規模な作品へ進出した時期を代表する一本です。
「宇宙戦艦ヤマト」の劇場版を監督
アニメ作品でも知られ、1977年公開の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」では監督を務めました。
その後も「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」では監督・原案・脚本、「ヤマトよ永遠に」では監督・脚本など、ヤマトシリーズに長く関わっています。
実写映画を中心に歩んできた監督でありながら、日本を代表するアニメシリーズにも深く関わった人物でした。
「二百三高地」など戦争映画も手掛けた
1980年公開の「二百三高地」は、日露戦争の旅順攻囲戦を題材とした大作です。
仲代達矢さんらが出演し、舛田利雄さんが監督を担当しました。
その後も「大日本帝国」「零戦燃ゆ」など戦争を題材にした作品を手掛けています。
一方で「ハイティーン・ブギ」のようなアイドル映画も監督しており、作風の幅広さがうかがえます。
舛田利雄の功績|「社葬」で監督賞、紫綬褒章・旭日小綬章も受章
舛田利雄さんは映画界で長く活躍し、作品だけでなく数々の映画賞や国の栄典でも功績を評価されています。
特に1989年公開の「社葬」は、晩年の代表作の一つになりました。
「社葬」で映画賞の監督賞を相次いで受賞
日本映画監督協会によると、舛田利雄さんは「社葬」で1989年度の毎日映画コンクール、報知映画賞、ブルーリボン賞の監督賞を受賞しています。
報知映画賞の公式記録でも、第14回となる1989年度の監督賞に舛田利雄さんが記録されています。
日本アカデミー賞でも「二百三高地」と「社葬」で優秀監督賞を受賞しました。
1993年に紫綬褒章、1999年に旭日小綬章
長年の映画界への功績が評価され、1993年には紫綬褒章を受章。
1999年には勲四等旭日小綬章を受章しています。
日活アクションの黄金期から21世紀に近い時期まで、実写・アニメ・映画・テレビを行き来しながら活動したことが、舛田利雄さんの大きな足跡となっています。
舛田利雄の家族構成|妻や子供は?長女は舛田紀子
舛田利雄さんの家族について、今回の訃報では長女の舛田紀子さんが大きく報じられています。
一方、妻については、日本映画監督協会の公式プロフィールや今回確認した主要な訃報記事では、氏名など詳しいプロフィールは紹介されていません。
舛田利雄の妻は誰?
舛田利雄さんの妻については、今回確認した日本映画監督協会のプロフィール、日刊スポーツ、共同通信、テレビ朝日の訃報では具体的な氏名が記載されていません。
そのため、妻の名前や年齢、経歴などについて、公表情報として紹介できる材料は限られています。
今回の葬儀についても、喪主を務めたのは妻ではなく長女の紀子さんだったと報じられています。
長女は女優の舛田紀子
舛田利雄さんの長女は、女優として活動した舛田紀子(ますだ・のりこ)さんです。
今回の訃報では喪主を務め、テレビ朝日の取材にも応じて父の晩年を語っています。
舛田紀子さんは1956年生まれで、女優・声優・歌手として活動した経歴があります。人物資料でも舛田利雄さんが父として紹介されています。
今回の主要報道では「長女」と明記されていますが、子供全員の人数や詳しい家族構成までは紹介されていません。
舛田利雄の死因・経歴・代表作や家族構成のまとめ
映画監督の舛田利雄さんは2026年8月26日午前11時1分、東京都内の病院で亡くなりました。98歳でした。
死因は老衰です。晩年は病気で入退院を繰り返していたことを長女の舛田紀子さんが明かしていますが、具体的な病名が死因として発表されたわけではありません。
1927年に神戸市で生まれ、大阪外国語大学ロシア語科を卒業後、新東宝、日活を経て映画監督になりました。
石原裕次郎さんとの「錆びたナイフ」「赤いハンカチ」をはじめ、「トラ・トラ・トラ!」「宇宙戦艦ヤマト」「二百三高地」「零戦燃ゆ」「ハイティーン・ブギ」「社葬」など、ジャンルを越えて数多くの作品を残しています。
1989年には「社葬」で複数の監督賞を受賞し、1993年に紫綬褒章、1999年に旭日小綬章を受章しました。
家族では長女の舛田紀子さんが公に知られており、今回の葬儀では喪主を務めています。妻については、主要報道や公式プロフィールで具体的な氏名などは明らかになっていません。
日活の娯楽映画からハリウッド大作、戦争映画、アニメまで手掛けた舛田利雄さん。その作品群は、長い日本映画史の中に幅広い足跡を残しています。
