
男子ゴルフ・上田諭尉さんが52歳で死去
男子プロゴルファーの上田諭尉さんが、2026年11月7日に亡くなりました。
52歳でした。
本人の公式Instagramを通じて訃報が伝えられ、日刊スポーツは11月7日午前7時25分に死去したと報じています。
Instagramでは「11月7日早朝に逝去した」と報告されており、突然の知らせとなったことへのお詫びも記されました。
上田さんは2007年の国内男子ツアー「東建ホームメイトカップ」でツアー初優勝。
2013年には全米オープンにも出場し、50歳を迎えてからはシニアツアーを中心に現役生活を続けていました。
亡くなる直前まで試合やテレビ番組への出演が続いていたこともあり、「死因は何だったのか」「病気だったのか」と気になっている人も多いようです。
上田諭尉さんの死因は?病気や病名は非公表
上田諭尉さんの具体的な死因や病名は、2026年11月8日夜時点では公表されていません。
本人のInstagramに掲載された訃報では、亡くなった日時については報告されていますが、
「病気だった」
「事故だった」
など、死去に至った原因については明らかにされていません。
日刊スポーツやスポニチなど主要メディアの訃報でも、死因は伝えられていません。
そのため現時点では、
「52歳で亡くなったことは確認されているが、死因・病名は非公表」
とするのが正確です。
以前から病気だったという情報はある?
上田諭尉さんが長期間にわたって特定の病気を患っていた、あるいは闘病生活を送っていたという公表情報も確認できません。
ただし、「直前まで試合に出ていた=病気ではなかった」と断定することもできません。
健康状態と競技への出場は別の問題だからです。
病名が公表されていない以上、心臓病や脳疾患など特定の病気を推測して死因と結び付けるのは避ける必要があります。
上田諭尉さんのWikiプロフィール
上田諭尉さんのプロフィールを表にまとめました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 上田諭尉 |
| 読み方 | うえだ・ゆい |
| 英語表記 | Yui UEDA |
| 生年月日 | 1974年3月9日 |
| 死去日 | 2026年11月7日 |
| 年齢 | 52歳 |
| 出身地 | 岐阜県大垣市 |
| 身長 | 175cm |
| 血液型 | A型 |
| 出身高校 | 大垣日大附属高校 |
| 出身大学 | 専修大学 |
| 職業 | プロゴルファー |
| プロ転向 | 1997年10月 |
| 所属 | 三甲ゴルフ倶楽部 谷汲コース |
| 国内男子ツアー優勝 | 1勝 |
| 主な優勝 | 2007年 東建ホームメイトカップ |
| 海外メジャー | 2013年 全米オープン出場 |
| 妻 | 愛さん(2007年のJGTO公式記事で確認) |
| 子供 | 長男・廉さん(同記事で確認) |
| 弟 | 崇宏さん |
| 死因 | 非公表 |
公式サイトでは、1974年3月9日生まれ、岐阜県大垣市出身で、大垣日大附属高校から専修大学へ進学したことが紹介されています。
JGTOのプロフィールでは身長175センチ、プロ転向日は1997年10月3日、ツアー通算1勝と記録されています。
上田諭尉さんの学歴は?大垣日大高校から専修大学へ
上田諭尉さんの出身高校は大垣日大附属高校です。
その後、専修大学へ進学しました。
中学生時代は野球部に所属しており、ゴルフを本格的に始めたのは高校生になってからでした。
公式サイトによると、中学3年生の頃に母親と練習場へ行ったことをきっかけにゴルフを始め、ショートコースが併設された練習場へ毎日のように通って腕を磨いたといいます。
大学ではゴルフ部の副キャプテンを務めました。
1994年には中部オープンでベストアマを獲得するなど、プロ転向前から実績を残しています。
若い頃はプロテストで96人抜き
大学卒業後、上田諭尉さんはプロテストに挑戦しましたが、最初は合格できませんでした。
その後、「1年間だけ」と決めてアメリカへ渡り、再びプロを目指します。
公式プロフィールによると、2度目の最終プロテストでは初日に142人中138位タイという厳しいスタートでした。
プロ入りを諦めることも覚悟したそうですが、その後巻き返し、4日間で96人を抜いて合格。
1997年10月にツアープレーヤーへ転向しました。
順調にプロ入りしたというより、苦しい時期を乗り越えてツアーの世界へ進んだ選手だったことが分かります。
2002年に初シード獲得
プロ転向後すぐに安定した成績を残せたわけではありません。
上田諭尉さんが初めてツアーシードを獲得したのは、プロ転向6年目となる2002年でした。
しかし翌2003年にはシードを失い、その後3年間は苦戦します。
大きな転機になったのが2006年の「東建ホームメイトカップ」です。
当初は出場権がなくウェイティングの立場でしたが、繰り上げで出場。
そこで2位タイに入り、再びシード権を手にするきっかけをつかみました。
2007年東建ホームメイトカップでツアー初優勝
翌2007年、上田諭尉さんは同じ東建ホームメイトカップで悲願のツアー初優勝を果たします。
初日から首位に立ち、そのままトップを守る完全優勝でした。
大会4日間のスコアは276、通算8アンダー。
優勝賞金は2200万円でした。
プロ転向から約10年をかけてつかんだ念願のツアー初勝利です。
弟・崇宏さんがキャディを務めた
この優勝で大きな役割を果たしたのが、弟の崇宏さんでした。
JGTOは当時、「弟がいなかったら勝てなかった」という上田さんの言葉を紹介しています。
崇宏さん自身もプロを目指した経験があり、ハンディキャップはプラス2。
兄の性格やゴルフを熟知しており、ミスが出た場面でも励まし続けました。
最終18番で優勝を決めた後、兄弟が抱き合った場面は、上田さんのプロ人生を象徴するシーンの一つとなっています。
ツアー屈指の「飛ばし屋」だった
上田諭尉さんのゴルフの大きな特徴が飛距離です。
JGTOによると、2001年にはドライビングディスタンス部門で2位。
男子ツアーでもトップクラスの「飛ばし屋」として知られていました。
2006年の「アンダーアーマーKBCオーガスタ」では、1ホールで規定打数より3打少なく上がるアルバトロスも達成しています。
豪快なドライバーショットを武器に攻めるスタイルが持ち味でした。
ツアー優勝回数は1回・生涯獲得賞金は2億円超
JGTOの公式記録では、上田諭尉さんのレギュラーツアー優勝回数は1回です。
生涯獲得賞金は、
2億2576万2720円
と記録されています。
2007年の初優勝後は7年間にわたりツアーシードを維持。
2011年のカシオワールドオープンでは3位、2012年のミズノオープンでも優勝争いを演じましたが、ツアー2勝目には届きませんでした。
それでも長期間にわたって日本男子ツアーの第一線で戦った選手です。
2013年には全米オープンに出場
上田諭尉さんは2013年、全米オープンの予選会を突破しました。
自身初となる海外メジャーへの出場です。
公式サイトでも「2013 全米オープン」が主な実績として紹介されています。
日刊スポーツも、予選会を勝ち抜いて初の海外メジャーに出場した経歴を伝えています。
国内ツアーだけでなく、世界最高峰の舞台にも挑戦したことになります。
40代以降もアジアンツアーなどに挑戦
レギュラーツアーのシードを失った後も、上田諭尉さんは競技生活を続けました。
40代になってからはアジアンツアーのQTにも挑戦。
2021年からは地元・岐阜県でゴルフレッスンを始めています。
本人は、これまで応援してくれた人たちに「ゴルフで恩返しをしたい」という思いから指導活動を始めたと公式プロフィールで説明していました。
ツアー競技とレッスンを並行しながら、ゴルフを幅広い世代へ伝える活動を続けていたことになります。
2024年からシニアツアーへ
50歳を迎えた上田諭尉さんは、シニアツアーにも本格参戦しました。
2024年のコマツオープンがシニアツアーのデビュー戦です。
その大会では2日目に64をマークするなど、一気に順位を上げる活躍を見せました。
2026年もシニアツアーを中心に試合へ出場しています。
8月のマルハンカップ太平洋クラブシニアでは通算1アンダーの36位タイでした。
その後も10月にはコマツオープン、佐世保シニアオープン、福岡シニアオープンなどに出場していました。
亡くなる6日前にはテレビ番組も放送
上田諭尉さんの訃報が驚きを持って受け止められた理由の一つが、直前まで活動する姿が伝えられていたことです。
公式Instagramでは2026年10月、BSフジ「ゴルフ トリプルマッチ」への出演を告知。
10月7日、14日、21日、28日の4週にわたって放送されました。
さらに11月1日にはBSテレ東の「ゴルフ侍、見参!」で、
「上田諭尉プロvsトップアマチュア」
が放送されています。
死去は11月7日だったため、放送からわずか6日後でした。
ただし、テレビ出演や試合出場が続いていたことだけを根拠に、亡くなる直前まで健康だったと判断することはできません。
上田諭尉さんの妻は愛さん
上田諭尉さんは結婚していました。
2007年の東建ホームメイトカップ優勝時、JGTOの公式記事で妻が愛さんであることが紹介されています。
記事によると、上田さんは2006年5月に結婚。
2007年の優勝前には妻の愛さんと長男に、
「今年は絶対に勝つ」
と誓っていました。
実際にシーズン開幕戦でツアー初優勝を達成し、家族との約束を果たしています。
なお、これは2007年当時にJGTOが公表した情報です。
2026年現在の夫婦の状況など、私生活について新たに公表された情報は確認できません。
子供は長男・廉さん
JGTOの2007年の記事では、上田諭尉さんの子供として長男の廉(れん)さんが紹介されています。
東建ホームメイトカップ初優勝は、妻・愛さんと長男・廉さんに誓った「優勝」という約束を実現した大会でもありました。
一方、子供がその後増えたのか、現在何人いるのかなどについては公表情報を確認できません。
そのため家族構成については、
2007年時点で妻・愛さんと長男・廉さんがいたことが確認されている
という表現が正確です。
弟・崇宏さんとはゴルフでも強い絆
上田諭尉さんの家族を語るうえでもう一人欠かせないのが、弟の崇宏さんです。
上田さんの公式プロフィールには、両親やきょうだいもゴルフを愛する家庭で育ったと記されています。
崇宏さんは2007年の東建ホームメイトカップでキャディを務め、兄のツアー初優勝を支えました。
JGTOも当時の優勝を「兄弟で勝ち取ったツアー初優勝」として紹介しています。
上田さんにとって、家族とゴルフは切り離せない存在だったことが分かります。
公式Instagramで訃報を発表
上田諭尉さんの訃報は、本人の公式Instagramで発表されました。
公式サイトにもInstagramアカウント「@yui.ueda0309」が掲載されています。
生前は試合結果だけでなく、練習、テレビ出演、シニアツアーでの活動などを積極的に発信していました。
10月の佐世保シニアオープン後にも自身のプレーを振り返る投稿をしており、次戦へ向けて練習する様子を伝えていました。
そのアカウントから突然訃報が伝えられた形となりました。
葬儀・通夜・告別式は岐阜県大垣市
上田諭尉さんのInstagramに掲載された訃報では、通夜・葬儀・告別式についても案内されており、出身地の岐阜県大垣市で執り行われる予定と報じられています。
Instagramの訃報画像を確認した二次報道では、通夜は11月9日、葬儀・告別式は11月10日、大垣市の鶴見斎場で予定されていると伝えられています。
ただし、参列方法や香典、供花などについては、実際に参列する場合は遺族や葬儀場などからの最新案内を確認する必要があります。
上田諭尉さんが残した功績
上田諭尉さんは、華々しい勝利だけを重ねてきた選手ではありません。
プロテストで一度不合格になり、アメリカへ渡った末にプロ入り。
初シードを失ってからも復活し、プロ転向から約10年後に東建ホームメイトカップで悲願のツアー初優勝を果たしました。
2013年には全米オープンへ出場し、40代でもアジアンツアーに挑戦。
50歳を迎えてからはシニアツアーへ舞台を移し、2026年まで競技を続けています。
さらに地元岐阜県ではゴルフレッスンにも取り組み、競技者として得た経験を次の世代へ伝えていました。
「NEVER GIVE UP」を掲げた公式サイトの言葉通り、長いプロ生活を通じて挑戦を続けたゴルファーだったといえるでしょう。
まとめ
男子プロゴルファーの上田諭尉さんは、2026年11月7日に52歳で亡くなりました。
本人の公式Instagramを通じて訃報が発表されましたが、具体的な死因や病名は2026年11月8日時点で公表されていません。
上田さんは1974年3月9日、岐阜県大垣市生まれ。
大垣日大附属高校から専修大学へ進み、1997年にプロへ転向しました。
2007年には弟・崇宏さんをキャディに迎えた東建ホームメイトカップで完全優勝し、ツアー初勝利を達成。
2013年には全米オープンにも出場しています。
近年はシニアツアーを主戦場とし、2026年10月にも大会に出場。
11月1日には「ゴルフ侍、見参!」でプレーする姿が放送されていました。
家族については、2007年のJGTO公式記事から妻・愛さんと長男・廉さんがいたことが確認されています。
弟の崇宏さんもゴルファーとして兄を支え、初優勝ではキャディとしてともに戦いました。
52歳という若さでの訃報となりましたが、レギュラーツアー、海外メジャー、シニアツアー、そしてゴルフ指導まで長く競技に向き合い続けた上田諭尉さんでした。
