
「内向の世代」を代表する作家として知られる黒井千次(くろい・せんじ)さんが、2026年10月12日に亡くなりました。
94歳でした。
共同通信などの訃報によると、死因は肺炎で、東京都内の病院で亡くなったことが確認されています。
黒井さんの本名は長部舜二郎(おさべ・しゅんじろう)さんです。東京大学経済学部卒業後に富士重工業へ入り、会社員として働きながら小説を書き続けました。
1970年に『時間』で芸術選奨新人賞を受賞すると同年に会社を退職。専業作家となった後は『群棲』『カーテンコール』『一日 夢の柵』などを発表し、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞など数多くの文学賞を受賞しました。
また、芥川賞には作家として5度候補となり、後年には約25年間にわたり芥川賞選考委員を務めています。日本文藝家協会理事長、日本芸術院長、日中文化交流協会会長なども歴任しました。
ここでは、黒井千次さんの死因となった肺炎や病気・入院の公表状況、本名やwiki風プロフィール、経歴・学歴、代表作、芥川賞との関係、妻・長男など家族構成、葬儀について紹介します。
黒井千次が94歳で死去|2026年10月12日に亡くなる
黒井千次さんが亡くなったのは、2026年10月12日です。
訃報は10月14日に報じられ、東京都内の病院で肺炎のため亡くなったことが明らかになりました。
死亡日は10月12日
黒井さんの死亡日と年齢は、
・死亡日:2026年10月12日
・年齢:94歳
・死因:肺炎
・死亡場所:東京都内の病院
と報じられています。
1932年5月28日生まれのため、94歳の誕生日を迎えてから約4か月後の死去となりました。小学館の作家プロフィールでも、生年月日は1932年5月28日と確認できます。
黒井千次の死因は肺炎
黒井千次さんの死因は「肺炎」です。
共同通信、読売新聞、時事通信など複数の報道機関が、肺炎のため東京都内の病院で亡くなったと伝えています。
肺炎に至った詳しい経緯は公表されていない
一方で、
・いつ肺炎を発症したのか
・何日間入院していたのか
・肺炎の種類
・背景に別の病気や持病があったのか
といった詳しい経緯までは、2026年10月14日時点の主要報道では明らかになっていません。
そのため、「持病が悪化して肺炎になった」「長期間闘病していた」といった説明を裏付ける公表情報は確認できません。
確認できる死因は「肺炎」までです。
黒井千次に持病はあった?病気・入院歴は?
今回の訃報では東京都内の病院で亡くなったことは報じられていますが、入院した時期や治療内容については触れられていません。
また、晩年に特定の重大な持病を公表していたという情報も、今回確認した主要な出版社プロフィールや訃報にはありませんでした。
2025年にも対談に登場
黒井さんは2025年、93歳で作家・阿刀田高さんとの対談「90代の歩き方」に登場しています。
新潮社は、東京都立西高校時代から互いを知る2人が90代の日常や人生について語った対談として紹介しています。
少なくとも亡くなる前年まで、作家として公の場で文学や老いについて言葉を残していました。
ただし、この活動歴から亡くなる直前の健康状態を判断することはできません。
黒井千次は何者?wiki風プロフィール
黒井千次さんは、企業や家族、市民の日常を題材に、人間の内面を描き続けた日本の小説家です。
古井由吉さん、後藤明生さん、坂上弘さんらとともに、1970年前後に登場した「内向の世代」の代表的作家として知られています。
黒井千次のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 筆名 | 黒井千次 |
| 読み方 | くろい せんじ |
| 本名 | 長部舜二郎 |
| 本名の読み | おさべ しゅんじろう |
| 生年月日 | 1932年5月28日 |
| 死去 | 2026年10月12日 |
| 年齢 | 94歳 |
| 出身地 | 東京都 |
| 学歴 | 東京大学経済学部卒業 |
| 前職 | 富士重工業社員 |
| 職業 | 小説家 |
| 主な代表作 | 『時間』『群棲』『カーテンコール』など |
| 主な受賞 | 谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞など |
| 主な役職 | 日本文藝家協会理事長、日本芸術院長など |
小学館や文化庁の資料でも、本名・長部舜二郎、生年月日、東京大学経済学部卒業、富士重工業勤務などの経歴が確認できます。
黒井千次の学歴|東京大学経済学部を卒業
黒井千次さんは1955年、東京大学経済学部を卒業しました。
高校時代にはすでに小説家を志し、読売新聞によると戦後派作家・野間宏さんの勧めを受けて東京大学経済学部へ進学したとされています。
高校は東京都立西高校
むさし野文学館の経歴資料では、黒井さんが高校時代を東京都内で送り、その後東京大学へ進学した歩みが詳しく紹介されています。
小学館系の人物プロフィールでは、出身校として東京都立西高等学校、東京大学が掲載されています。
2025年に対談した阿刀田高さんは都立西高校の後輩で、学生時代から70年以上にわたるつながりがありました。
富士重工業で働きながら小説を書いた
東京大学卒業後の1955年、黒井千次さんは富士重工業株式会社へ入社しました。
現在のSUBARUにつながる企業です。
会社員として働きながら創作活動を続け、1958年に『青い工場』を発表しました。
労働と企業を題材に小説を執筆
会社員時代の経験は、その後の文学に大きく影響しました。
『聖産業週間』『穴と空』『時間』などで、企業の中で働く人間や労働者が抱える葛藤を描いています。
読売新聞は、黒井さんについて富士重工業で働きながら「労働と人間の関わり」を主題とする作品を書いたと紹介しています。
会社員と作家を並行していた経験そのものが、黒井作品の特徴につながっていました。
『時間』で芸術選奨新人賞を受賞し専業作家へ
黒井千次さんの転機となった作品が『時間』です。
同作で1970年に芸術選奨新人賞を受賞しました。
そして同じ年に、15年間勤務した富士重工業を退職。専業作家として活動を始めています。
「内向の世代」を代表する作家へ
1970年前後の文学界では、政治的な思想や社会運動を直接的に描くのではなく、日常を生きる個人の内面へ目を向ける作家たちが「内向の世代」と呼ばれました。
黒井さんも古井由吉さんや後藤明生さんらとともに、その代表的な作家とされています。
黒井さん自身は、企業や家族といった身近な社会の中で、人間が何を感じ、どのように生きるのかを描き続けました。
黒井千次の代表作①『時間』
『時間』は黒井千次さんの初期を代表する作品です。
労働者の苦難や、組織と個人の関係を描いた作品として知られ、1970年の芸術選奨新人賞受賞につながりました。
会社員をしながら執筆していた時期の代表作であり、専業作家へ踏み出すきっかけにもなった重要な作品です。
黒井千次の代表作②『五月巡歴』
『五月巡歴』も黒井さんの代表作として挙げられます。
読売新聞は、日米講和を巡ってデモ隊と警官隊が衝突した「血のメーデー事件」を題材にした作品と紹介しています。
若い時代に経験した戦後社会と、その中を生きる個人の記憶を文学として描いた作品です。
黒井千次の代表作③『群棲』
1984年には『群棲』で第20回谷崎潤一郎賞を受賞しました。
同作は郊外で生活する4つの家族を描き、家庭や近隣関係の中にある人間の感情を捉えた作品です。
会社と労働だけでなく、家族や市民の日常へ題材を広げた黒井文学を代表する一冊といえます。
『カーテンコール』で読売文学賞
1994年に刊行された『カーテンコール』では、翌1995年に第46回読売文学賞小説賞を受賞しました。
黒井さんは60代以降も創作を続け、
『羽根と翼』
『一日 夢の柵』
『高く手を振る日』
『流砂』
などを発表しました。
新潮社は、ほかにも『時の鎖』『走る家族』『春の道標』『たまらん坂』『老いのつぶやき』などを主な著書として紹介しています。
黒井千次の受賞歴・功績
黒井千次さんは、小説家として多数の文学賞・顕彰を受けています。
主なものは次の通りです。
・1970年『時間』で芸術選奨新人賞
・1984年『群棲』で谷崎潤一郎賞
・1995年『カーテンコール』で読売文学賞
・2000年 日本芸術院賞
・2001年『羽根と翼』で毎日芸術賞
・2006年『一日 夢の柵』で野間文芸賞
・2008年 旭日中綬章
・2014年 文化功労者
文化庁の経歴資料にもこれらの受賞・顕彰歴が掲載されています。
日本芸術院長を6年間務めた
黒井さんは2000年に日本芸術院会員となり、2014年10月1日から2020年9月30日まで日本芸術院長を務めました。
作家として作品を書くだけでなく、日本の文学・芸術界を支える立場でも長く活動しています。
日本文藝家協会理事長も歴任
2002年から2006年までは日本文藝家協会理事長を務めました。
同協会の歴代理事長一覧にも黒井さんの名前が掲載されています。
黒井千次と芥川賞の関係|5度候補になり後に選考委員
黒井千次さんについて「芥川賞を受賞した作家」と思っている人もいるかもしれません。
しかし、黒井さんは芥川賞受賞者ではありません。
読売新聞によると、『聖産業週間』『穴と空』『時間』などで計5度、芥川賞候補になりました。
約25年間にわたり芥川賞を選考
受賞には至らなかった一方、後には選ぶ側となりました。
小学館の作家プロフィールでは、1987年から2012年まで芥川賞選考委員を務めたとされています。
約25年間にわたって新しい文学作品を選考したことになります。
自身が何度も候補になった経験を持ち、その後長期間にわたって芥川賞を支える側になったという経歴も、黒井さんの文学人生の特徴です。
黒井千次の妻は?結婚や家族構成
黒井千次さんの訃報では、長男の聡介さんが喪主を務めることが明らかにされています。
一方、妻については今回の訃報や出版社の公式プロフィールで氏名などの詳しい情報は公表されていません。
長男は長部聡介さん
時事通信は、喪主を「長男の長部聡介(おさべ・そうすけ)さん」と報じています。
黒井千次は筆名で、本名が長部舜二郎さんであるため、長男は本名の姓で紹介されています。
子供は何人いる?
今回確認した主要報道で明確に公表されている子供は長男の聡介さんです。
ほかに息子や娘がいるのか、子供が何人なのかといった家族構成については、訃報では明らかにされていません。
妻についても氏名や年齢、現在の状況を確認できる公的な情報は見つかりませんでした。
そのため家族については、長男・聡介さんの存在までが今回の訃報で確実に確認できる情報となります。
黒井千次の父親は元最高裁判事・長部謹吾
黒井千次さんの家族については、父親の経歴も知られています。
人物資料によると、黒井さんは元最高裁判所判事・長部謹吾さんの次男として生まれました。
一方で黒井さん自身は法曹界ではなく文学の道を選び、大学卒業後は企業勤務を経て作家となりました。
黒井千次の晩年|老いそのものを文学の題材に
黒井千次さんは晩年、老いを自身の重要な文学テーマの一つとしていました。
読売新聞は『高く手を振る日』『流砂』などについて、長寿社会における現代の老いを文学を通じて見つめ直した作品と紹介しています。
新潮社の著者ページにも『老いのつぶやき』などが代表的著書として掲載されています。
93歳でも文学について語っていた
2025年には93歳で阿刀田高さんとの対談に登場しました。
「90代の歩き方」というテーマで老境の日常や人生について語っており、90代になっても文学者として発信を続けていました。
黒井千次の葬儀・告別式は10月20日
黒井千次さんの葬儀・告別式についても日程が公表されています。
日刊スポーツなどによると、2026年10月20日午前11時から、東京都墨田区両国の回向院で執り行われます。
喪主は長男・聡介さん
喪主は長男の長部聡介さんです。
葬儀会場は、
東京都墨田区両国2丁目8番10号の回向院
と報じられています。
一般向けのお別れの会などが別途開催されるかについては、2026年10月14日時点では主要報道で案内されていません。
黒井千次の死去・死因や作家としての功績について分かっていること
「内向の世代」を代表する小説家・黒井千次さんは、2026年10月12日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。
94歳でした。
具体的にいつ肺炎を発症したのか、入院期間や別の持病があったのかといった詳しい病状は公表されていません。
黒井さんは本名・長部舜二郎さん。1932年5月28日に東京で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、1955年に富士重工業へ入社しました。
会社員として働きながら小説を書き、『時間』で1970年に芸術選奨新人賞を受賞。同年に富士重工業を退職して専業作家となりました。
1984年には『群棲』で谷崎潤一郎賞、1995年には『カーテンコール』で読売文学賞、2006年には『一日 夢の柵』で野間文芸賞を受賞しています。
芥川賞には5度候補となり、後には約25年間選考委員を担当。日本文藝家協会理事長、日本芸術院長、日中文化交流協会会長なども歴任し、2014年には文化功労者に選ばれました。
家族については、長男の長部聡介さんが喪主を務めることが確認されています。一方、妻やほかの子供についての詳しい公表情報は今回の訃報では確認できません。
葬儀・告別式は10月20日午前11時から東京都墨田区の回向院で行われる予定です。
企業で働く一人の人間から、家庭、老いへと題材を広げながら、日常の中にある人間の内面を半世紀以上にわたって描き続けた黒井千次さん。
作品だけでなく、芥川賞選考委員や日本芸術院長として長く文学・芸術界を支えたことも、大きな功績として残ります。

