
日本人として初めて宇宙へ行った元TBS記者の秋山豊寛(あきやま・とよひろ)さんが亡くなったことが、2026年9月1日に報じられました。
朝日新聞の報道によると、秋山さんは2026年8月26日、下部消化管出血のため死去しました。84歳でした。葬儀は近親者で営まれ、喪主は妻の礼子さんが務めています。
秋山さんといえば、1990年12月に旧ソ連の宇宙船「ソユーズTM11」に搭乗し、日本人として初めて宇宙飛行を実現した人物です。
宇宙からの第一声「これ、本番ですか?」や「ああ、地球はやっぱり青いです」という言葉を覚えている人も多いのではないでしょうか。
一方で、秋山さんは現在のJAXAに所属する宇宙飛行士ではありません。
当時TBS社員として「宇宙特派員計画」に参加し、旧ソ連で訓練を受けて宇宙へ飛んだという、日本の有人宇宙飛行史の中でも非常に珍しい経歴を持っています。JAXAも「日本人として初めて宇宙へ行ったのは秋山豊寛氏」と明記しています。
秋山豊寛さん死去|2026年8月26日に84歳で亡くなる
秋山豊寛さんの死去が大きく報じられたのは2026年9月1日です。
実際に亡くなったのは8月26日で、死因は下部消化管出血でした。
死去日は8月26日、死因は下部消化管出血
朝日新聞が9月1日に伝えた訃報では、秋山さんについて、
- 死去:2026年8月26日
- 年齢:84歳
- 死因:下部消化管出血
- 葬儀:近親者で執り行った
- 喪主:妻・礼子さん
と報じています。
速報段階で「秋山豊寛 死因は?」「秋山豊寛 病気」と検索した人も多いと思いますが、死因については現在「下部消化管出血」と明らかになっています。
秋山豊寛さんの死因「下部消化管出血」とは?病気は公表されていた?
秋山豊寛さんの死因として報じられたのは「下部消化管出血」です。
一方、出血を引き起こした具体的な基礎疾患まで公表されたわけではありません。
下部消化管出血とは大腸などから出血する状態
下部消化管出血は、大腸など下部の消化管で出血が起きている状態を指します。
日本大腸肛門病学会は、下部消化管出血の原因として、大腸憩室出血、虚血性腸炎、出血性腸炎、出血性直腸潰瘍、痔出血など複数の病気があると説明しています。
つまり「下部消化管出血」は出血が起きた場所・状態を示す表現であり、それだけから原因となった病気を一つに特定できるものではありません。
大腸憩室出血などが原因だった?
高齢者の下部消化管出血では大腸憩室出血なども知られています。
日本消化管学会も、高齢化に伴って大腸憩室疾患の診断・治療の重要性が高まっているとして、2026年に改訂ガイドラインを発刊しています。
ただし、秋山さんについて「大腸憩室出血だった」「大腸がんだった」などとする発表は確認されていません。
そのため、秋山豊寛さんの死因は下部消化管出血ですが、その背景にあった具体的な病名は現時点で明らかになっていないというのが公表情報に沿った見方です。
秋山豊寛さんは何歳?wikiプロフィール
秋山豊寛さんは1942年生まれ、東京都出身です。
1966年に国際基督教大学を卒業してTBSへ入社し、報道記者として海外取材などを経験した後、48歳だった1990年に宇宙へ飛び立ちました。
秋山豊寛さんのwiki風プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 秋山豊寛 |
| 読み方 | あきやま とよひろ |
| 生年 | 1942年 |
| 出身地 | 東京都 |
| 年齢 | 84歳で死去 |
| 学歴 | 国際基督教大学社会科学科卒 |
| 職業 | ジャーナリスト、宇宙飛行士、大学教授、農業従事者 |
| 勤務先 | 元TBS |
| 宇宙飛行 | 1990年12月 |
| 搭乗宇宙船 | ソユーズTM11 |
| 滞在先 | 宇宙ステーション「ミール」 |
| 帰還 | ソユーズTM10 |
| 主な功績 | 日本人初の宇宙飛行、宇宙からのテレビ生中継 |
| 死去 | 2026年8月26日 |
| 死因 | 下部消化管出血 |
JAXAの記録では、秋山さんは1990年12月にソユーズTM11で宇宙へ行き、ミールへドッキング。宇宙飛行は1回で、総飛行日数は約9日とされています。
秋山豊寛さんの学歴|国際基督教大学・ICUを卒業
秋山豊寛さんの最終学歴は国際基督教大学、通称ICUです。
ICU同窓会の公式インタビューでは、1966年に社会科学科を卒業した後、TBSへ入社したことが紹介されています。
1966年にICU社会科学科を卒業
秋山さんは国際基督教大学で社会科学を学びました。
ICU卒業後はTBSに入り、
- ロンドン駐在
- 外信部
- 政治部
- ワシントン支局長
- 外信部デスク
など、国際報道を中心とするキャリアを積んでいます。
宇宙飛行士になるために理工系大学や航空分野の学校を卒業した人物ではなく、もともとは報道記者だったという点が秋山さんの大きな特徴です。
秋山豊寛さんの経歴|TBS記者から日本人初の宇宙飛行士へ
秋山豊寛さんは大学卒業後の1966年にTBSへ入社しました。
海外報道の経験を積んだ後、1989年にTBSが進めた「宇宙特派員計画」へ参加します。
ロンドン駐在・ワシントン支局長などを歴任
秋山さんはTBSでロンドン駐在、政治記者、外信記者などを経験しました。
1980年代にはワシントン支局長を務めるなど、宇宙へ行く以前から国際報道の第一線で活動していました。
1989年、TBSが創立40周年事業として進めていた宇宙特派員計画の候補者となり、旧ソ連で本格的な宇宙飛行士訓練を受けることになります。
TBS社内の選考を突破して宇宙特派員に
ICU同窓会のインタビューで秋山さんは、TBS社内から多数の応募者が集まり、段階的な選抜を経て候補者になった当時を振り返っています。
1989年からモスクワ郊外の宇宙飛行士訓練施設でロシア語や宇宙船の操作、緊急時の対応などを学びました。
そして1990年12月2日、旧ソ連・バイコヌール宇宙基地からソユーズTM11で宇宙へ向かいます。
秋山豊寛さんが日本人初の宇宙飛行|ソユーズTM11でミールへ
JAXAは公式FAQで「日本人として初めて宇宙へ行った人は秋山豊寛氏」と明記しています。
1990年12月2日に当時TBS社員だった秋山さんがソユーズTM11で宇宙へ行き、宇宙ステーション「ミール」に滞在しました。
1990年12月2日に宇宙へ
ソユーズTM11は1990年12月2日、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。
放送ライブラリーによると、秋山さんは2日後にミールへ移り、宇宙で実験や地球環境のリポートを行い、約189時間に及ぶ宇宙飛行を経験しました。
帰還時には別の宇宙船「ソユーズTM10」を使用しています。
ミールに6日間滞在
JAXAは秋山さんがミールに6日間滞在し、地球の映像を撮影して日本へ生中継したと紹介しています。
当時は現在のISS・国際宇宙ステーションではなく、旧ソ連が運用していた宇宙ステーション「ミール」の時代でした。
秋山さんはミールに滞在した日本人としても特別な存在です。
秋山豊寛さんとJAXAの関係|JAXA所属の宇宙飛行士ではない
「秋山豊寛 JAXA」と検索すると、JAXAの宇宙飛行士だったのか気になる人もいるでしょう。
結論からいうと、秋山豊寛さんはJAXAやその前身の宇宙開発事業団に所属して選抜された宇宙飛行士ではありません。
TBS社員として宇宙へ行った
秋山さんが宇宙へ行った1990年当時の所属はTBSでした。
TBSが旧ソ連側と進めた民間の宇宙特派員プロジェクトで訓練を受け、ソユーズへ搭乗しています。
一方、現在のJAXAにつながる宇宙開発事業団では1985年に毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんが宇宙飛行士候補として選抜されていました。
JAXAも「日本人初」は秋山豊寛と記録
所属がJAXA系ではなかったことで、「日本人初の宇宙飛行士は毛利衛さんでは?」と思う人もいるかもしれません。
JAXA自身は、
日本人として初めて宇宙へ行ったのは秋山豊寛さん
日本人として初めてスペースシャトルへ搭乗したのは毛利衛さん
と区別して説明しています。
毛利さんは1992年9月、NASAのスペースシャトル「エンデバー」で宇宙飛行を行いました。
秋山豊寛さんの功績|日本初だけでなく世界初の「宇宙特派員」
秋山豊寛さんの功績は「日本人で最初に宇宙へ行った」という一点だけではありません。
ジャーナリストという立場のまま宇宙へ飛び、テレビ・ラジオを通じて宇宙の様子を地上へ伝えたことにも大きな意味がありました。
宇宙から地球を生中継
JAXAは秋山さんについて、地球の映像を撮影し、生中継を行った「初の日本人宇宙特派員」と紹介しています。
TBSでは「日本人初!宇宙へ」と題した大規模な特別番組が組まれ、打ち上げからミール滞在、帰還まで連日伝えられました。
当時、宇宙飛行は国家機関に所属する専門家が行うという印象が強かった時代です。
その中で、一人のテレビ記者が実際に宇宙へ行き、視聴者へ自分の言葉でリポートしたことは、日本の放送史においても特別な出来事でした。
ロシアから宇宙開発功労メダル
JAXAの広報資料によると、秋山さんは2011年、日本人初の宇宙飛行を行った人物として、ロシアから宇宙開発功労メダルを授与されています。
宇宙飛行から20年以上が過ぎても、その功績は有人宇宙活動の歴史の中で評価され続けました。
秋山豊寛さんの名言「これ、本番ですか?」
秋山豊寛さんを象徴する言葉として最も有名なのが「これ、本番ですか?」です。
日本人が初めて宇宙から発した言葉として、多くの人の記憶に残りました。
宇宙からの第一声が「これ、本番ですか?」
ウェザーニュースのインタビューによると、本来は宇宙から別の言葉を伝える準備をしていました。
ところが中継予定より少し早く地上から呼びかけられたため、秋山さんが思わず「これ、本番ですか?」と確認。
その言葉がそのまま日本人初の宇宙からの第一声になりました。
秋山さん自身も後年、テレビ記者らしい第一声になったと振り返っています。
「ああ、地球はやっぱり青いです」
もう一つ印象的なのが、地球を実際に宇宙から眺めた際の言葉です。
当時の記録では、宇宙から地球をリポートする中で「ああ、地球はやっぱり青いです」と話しています。
「地球は青かった」というガガーリンの有名な言葉を連想させますが、秋山さんの場合はテレビ記者らしく、目の前で見えている景色をそのまま視聴者へ伝えた言葉でした。
秋山豊寛さんは宇宙飛行後TBSを退社|農業の道へ
宇宙から帰還した秋山豊寛さんは、そのまま宇宙開発の専門家として生き続けたわけではありません。
1995年にTBSを退社し、人生を大きく転換しました。
1995年にTBSを退社
ICU同窓会によると、宇宙飛行後はTBS報道局次長や国際ニュースセンター長などを務め、1995年末に退社しました。
秋山さん自身は後年、管理職となって報道現場から離れていくことへの思いや、一度しかない人生をどう生きるのかを考えたことを退社理由として語っています。
福島県でしいたけ農家に
TBSを辞めた後は福島県滝根町、現在の田村市へ移住しました。
無農薬・有機農業を始め、しいたけや米、大豆、野菜などを育てる「農のある暮らし」へ転身しています。
日本人初の宇宙飛行を経験した人物が、50代でテレビ局を離れ農業へ転じたという生き方も、秋山さんが注目された理由の一つでした。
福島第一原発事故で避難|京都芸術大学教授へ
秋山豊寛さんの農業生活は、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故によって大きく変わりました。
福島での生活を続けることが難しくなり、その後京都へ移っています。
原発事故で福島から避難
秋山さんが農業をしていた場所は福島第一原発から約32キロの地域でした。
2011年の原発事故後は福島を離れ、自身を「原発難民」と表現しながら、原子力発電や環境問題についても発言しています。
宇宙から地球環境を見た経験と、農業を通して大地と接してきた経験の両方を持つ人物として、環境問題について講演・執筆活動を続けました。
京都造形芸術大学の教授に
その後、京都造形芸術大学、現在の京都芸術大学で教授を務めました。
日本大百科全書では2011年11月に芸術学部教授へ就任し、2018年に退任したと紹介されています。
TBS記者、宇宙飛行士、農業者、大学教授という、非常に幅広い経歴を持つことになります。
秋山豊寛さんの妻は誰?喪主は礼子さん
秋山豊寛さんの家族について、2026年の訃報で確認できる妻は礼子さんです。
朝日新聞は、近親者で営まれた葬儀の喪主を妻の礼子さんが務めたと伝えています。
妻・礼子さんが喪主
今回の訃報では「喪主は妻礼子さん」と明記されています。
礼子さんの年齢や職業など、詳しいプロフィールまでは報じられていません。
芸能人や公人として活動している人物ではないため、公開されている家族情報は限定的です。
1990年の宇宙飛行時には妻・京子さんが見送っていた
一方、1990年の宇宙飛行当時の記事では「妻・京子さん」がバイコヌール宇宙基地で打ち上げを見守ったと記録されています。
2026年の訃報では妻として礼子さんの名前が出ているため、当時と現在では家族関係に変化があったことがうかがえます。
ただ、その詳しい経緯を今回の訃報やJAXAなどの公的プロフィールが説明しているわけではないため、ここでは確認できる事実までとします。
秋山豊寛さんに子供はいる?
秋山豊寛さんには子供がいたことが、1990年当時の報道から確認できます。
打ち上げ前、秋山さんが妻へ子供たちの弁当について話したエピソードが残されています。
宇宙へ向かう直前にも子供を気遣う
日刊スポーツが過去記事を復刻した内容では、秋山さんが出発直前、妻へ子供たちのことを気遣う言葉を残したと紹介されています。
日本人初の宇宙飛行という歴史的な出来事の直前でありながら、家庭では普段と変わらない父親としての顔を見せていたエピソードです。
一方、子供たちの現在の氏名や職業、生活状況については、今回の訃報やJAXAの資料では公表されていません。
一般の家族については、公開されている範囲を超えて人物を特定する情報は扱わない方がよいでしょう。
秋山豊寛さんの功績|宇宙から農業まで異色の人生
秋山豊寛さんの人生は、「日本人初の宇宙飛行士」という肩書だけでは収まりません。
報道記者として世界を取材し、宇宙から地球を見た後には農業へ入り、原発事故を経験し、大学で次世代へ自身の経験を伝えました。
日本人の有人宇宙飛行史の出発点
1990年12月2日、秋山さんがソユーズTM11で宇宙へ向かったことで、日本人による宇宙飛行の歴史が始まりました。
毛利衛さんがスペースシャトルで飛行する約1年9カ月前の出来事です。
JAXAも現在まで秋山さんを「日本人として初めて宇宙へ行った人」として記録しています。
宇宙から見た地球がその後の生き方に影響
秋山さんは後年、宇宙から見た地球について「薄い皮一枚の大気に覆われ、はかないほどの美しさだった」という趣旨で振り返っています。
そして宇宙体験を通じて、本当に大切なものを考えるようになったことが、後の農業生活にもつながったと語りました。
「宇宙飛行士になった人」ではなく、宇宙へ行った経験をその後の人生そのものへ反映させた人物だったといえます。
秋山豊寛さん死去|死因・経歴・家族やJAXAとの関係について分かっていること
日本人として初めて宇宙へ行った秋山豊寛さんは、2026年8月26日、下部消化管出血のため亡くなりました。84歳でした。
訃報は9月1日に報じられ、葬儀は近親者で営まれています。喪主は妻の礼子さんです。
秋山さんは1942年東京都生まれ。
国際基督教大学社会科学科を1966年に卒業してTBSへ入社し、ロンドン駐在、外信部、政治部、ワシントン支局長などを経験しました。
1990年12月2日にはTBSの宇宙特派員として旧ソ連のソユーズTM11へ搭乗。
宇宙ステーション「ミール」に滞在し、日本人として初めて宇宙へ行った人物となりました。
宇宙からの第一声「これ、本番ですか?」は今も語り継がれています。
JAXA所属の宇宙飛行士ではありませんでしたが、JAXAも秋山さんを日本人初の宇宙飛行者として公式に記録しています。
TBS退社後は福島県で農業に取り組み、福島第一原発事故後は京都へ移住。京都造形芸術大学の教授も務めました。
家族では、2026年の訃報で妻・礼子さんが喪主を務めたことが明らかになっています。また、1990年当時の報道から子供がいたことも確認できます。
テレビ記者として宇宙へ行き、地球へ戻ってからは農業の現場へ。
日本の宇宙開発史だけでなく、放送史にも大きな足跡を残した秋山豊寛さん。その「これ、本番ですか?」という飾らない第一声とともに、日本人初の宇宙飛行という功績は長く記憶されることになりそうです。

