
広島東洋カープの投手として1975年の球団初優勝に貢献した池谷公二郎さんが、2026年10月29日に亡くなりました。
74歳でした。
テレビ新広島や共同通信、日刊スポーツなど複数のメディアが10月29日、池谷公二郎さんが多発性骨髄腫のため死去したと報じています。
池谷さんは豪快な投球フォームで知られ、1975年には18勝を挙げてカープ初のセ・リーグ優勝に大きく貢献。
翌1976年には20勝を挙げ、最多勝と沢村賞に輝くなど、カープ黄金期を支えたエースの一人でした。
引退後も広島や巨人で投手コーチを務め、その後は野球解説者としてカープを長年見守ってきました。
突然の訃報を受けて、「池谷公二郎さんの死因は?」「いつから病気だった?」「最近の様子はどうだった?」と気になっている人も多いでしょう。
ここから詳しく見ていきます。
池谷公二郎さんの死因は多発性骨髄腫
池谷公二郎さんの死因は、多発性骨髄腫と報じられています。
テレビ新広島は2026年10月29日午前11時21分、池谷さんが多発性骨髄腫のため同日に亡くなったと速報しました。
共同通信や日刊スポーツなども同じ死因を伝えています。
したがって、現時点では死因について「不明」「心臓病だったのでは」と推測する必要はありません。
多発性骨髄腫とはどんな病気?
多発性骨髄腫は、血液細胞の一種である「形質細胞」が腫瘍化して増殖する血液のがんです。
日本血液学会によると、異常な形質細胞が増えることで正常な血液細胞の産生や骨、腎臓などに影響を及ぼす病気です。
国立がん研究センター「がん情報サービス」では、主な症状として、
- 貧血による息切れや動悸
- 倦怠感
- 骨の痛みや骨折
- 腎機能障害
- 高カルシウム血症
- 出血しやすくなる症状
などが挙げられています。
ただし、症状がほとんどなく、健康診断などの検査値の異常から見つかる人もいます。
池谷さんに具体的にどの症状があったのかについては、公表された情報だけでは分かっていません。
池谷公二郎さんはいつから病気で闘病していた?
池谷公二郎さんがいつ多発性骨髄腫と診断されたのかは、2026年10月29日現在、具体的な時期が公表されていません。
広島テレビは訃報の中で、池谷さんについて「近年は闘病を続けながらもカープを温かく見守り続けた」と報じています。
さらに、元広島の安仁屋宗八さんは池谷さんの訃報を受け、「入退院を繰り返していたのも知っていた」と明かしています。
この証言から、亡くなる以前から入退院を伴う闘病生活が続いていたことは確認できます。
ただし、
「何年前に多発性骨髄腫を発症したのか」
「いつ診断されたのか」
「抗がん剤など、どのような治療を受けていたのか」
といった具体的な治療経過は現時点では公表されていません。
そのため、闘病開始時期を推測で断定するのは避けたほうがよいでしょう。
池谷公二郎さんの最近の様子や最後のテレビ出演は?
池谷公二郎さんは現役引退後、長く野球解説者として活動していました。
日刊スポーツによると、2005年以降は地元テレビ局でプロ野球解説者を務めています。
闘病中も完全にカープとの関わりを絶っていたわけではなかったようです。
安仁屋宗八さんは池谷さんについて、
「最後にテレビ出演したときも見ていた」
と明かしています。
一方で、今回確認できた主要報道では、最後のテレビ出演が具体的にいつ、どの番組だったのかまでは明らかにされていません。
「最後の出演日」として特定の日付を紹介している情報には注意が必要です。
また、外木場義郎さんは、池谷さんがOB会に出席しないことがあり、「状態が良くないのかと心配していた」と明かしています。
周囲の証言からは、体調と向き合いながら活動を続けていた様子がうかがえます。
池谷公二郎さんのWikiプロフィール
池谷公二郎さんのプロフィールをまとめると、次のようになります。
名前:池谷公二郎
読み方:いけがや・こうじろう
生年月日:1952年6月28日
没年月日:2026年10月29日
享年:74歳
出身:静岡県
出身高校:静岡商業高校
ポジション:投手
投打:右投右打
プロ入り:1972年度ドラフト1位
広島入団:1974年
現役引退:1985年
死因:多発性骨髄腫
日刊スポーツや共同通信によると、静岡商業高校から金指造船、日本楽器を経て、1972年度ドラフト1位で広島から指名され、1974年に入団しました。
池谷公二郎さんの学歴は静岡商業高校
池谷公二郎さんの出身高校は、野球の名門として知られる静岡県立静岡商業高校です。
高校卒業後は大学へ進学せず、社会人野球の世界に進みました。
静岡商業高校から、
金指造船 → 日本楽器 → 広島東洋カープ
という経歴を歩んでいます。
現在のヤマハにつながる日本楽器でプレーした後、1972年度のドラフト会議で広島から1位指名を受けました。
実際にプロ入りしたのは1974年です。
1975年に18勝!広島カープ初優勝に貢献
池谷公二郎さんの名前がカープ史に刻まれた大きな理由が、1975年の球団初優勝です。
プロ2年目となった1975年、池谷さんは18勝を挙げました。
広島カープは同年、球団創設以来初めてセ・リーグを制覇。
池谷さんはエース級の活躍で歴史的な優勝を支えました。
外木場義郎さんは池谷さんの訃報を受け、初優勝当時を振り返り、池谷さんの18勝を「大車輪の働き」と評価しています。
自身が勝てないときにも池谷さんが勝ってくれたとして、非常に頼もしい投手だったと故人をしのびました。
1976年は20勝で最多勝・沢村賞
池谷公二郎さんが投手としてキャリア最高のシーズンを送ったのが1976年です。
この年は、
20勝15敗
3セーブ
207奪三振
を記録しました。
20勝で最多勝に輝き、沢村賞とベストナインも受賞しています。
当時24歳でした。
左腕を大きく上げる独特で豪快な投球フォームも池谷さんの代名詞でした。
1977年にはシーズン48被本塁打というプロ野球記録も残しています。
一見すると不名誉な数字に見えますが、それだけ長いイニングを任され、打者に真っ向勝負を挑んだエースの象徴として語られてきました。
池谷公二郎さんの現役通算成績は103勝
池谷公二郎さんは1974年から1985年まで、広島一筋で12年間プレーしました。
通算成績は、
325試合登板
103勝84敗
10セーブ
防御率4.13
です。
通算奪三振は1056を記録しています。
1981年には通算1000奪三振、1983年には通算100勝を達成。
カープの歴史を語るうえで欠かせない右腕の一人です。
池谷公二郎さんの引退理由は?
池谷公二郎さんは1985年シーズンを最後に現役を引退しました。
ただし、今回確認できた主要な訃報記事などでは、「特定のケガが原因だった」など引退理由を一つに限定した説明は確認できませんでした。
1980年代に入ると登板数や投球回が減少し、1985年は8試合の登板にとどまっています。
そのため、成績や起用状況の変化を経て現役生活に区切りを付けたと見るのが自然ですが、本人が語った明確な引退理由が確認できない以上、断定は避けるべきでしょう。
引退後は広島・巨人で投手コーチ
池谷公二郎さんは現役引退後、指導者としてもプロ野球界に携わりました。
広島だけでなく、巨人でも投手コーチを務めています。
安仁屋宗八さんによると、山本浩二さんが広島の監督を務めていた時期には、池谷さんがベンチ、安仁屋さんがブルペンという形で投手陣を指導していました。
池谷さんについて安仁屋さんは、選手が練習で手を抜く姿を見ると厳しい言葉をかけていたと振り返り、「野球に対する情熱は誰よりも熱かった」と語っています。
自身が現役時代に厳しい練習を経験してきたからこそ、指導者としても妥協しない姿勢を貫いていたのでしょう。
野球解説者としてカープを長年見守った
指導者を離れた後も、池谷公二郎さんと野球との関係は続きました。
2005年以降は地元テレビ局でプロ野球解説者として活動。
現役時代を知らない世代にとっては、「カープの解説者・池谷公二郎」という印象が強い人もいるかもしれません。
広島テレビも訃報で、現役引退後はコーチや野球解説者として親しまれ、近年は闘病しながらカープを見守っていたと伝えています。
投手、コーチ、解説者と立場を変えながら、長年カープに関わり続けた人物でした。
安仁屋宗八さんが池谷公二郎さんを追悼
池谷公二郎さんの訃報を受け、カープOBからも追悼の声が寄せられています。
安仁屋宗八さんは、
「大事な仲間がまた1人、旅立ってしまった」
と池谷さんの死を悼みました。
入退院を繰り返していたことも把握していたといい、指導者時代だけでなく、プライベートでも家族ぐるみでキャンプや魚釣りを楽しんだ思い出を明かしています。
野球だけでなく、家族同士でも親交の深い関係だったことが分かります。
外木場義郎さんも「まだ若い」と死を悼む
1975年の初優勝をともに支えた外木場義郎さんも、池谷公二郎さんを追悼しています。
外木場さんは、池谷さんがOB会を欠席することがあったため体調を心配していたと明かしました。
そのうえで、74歳での訃報について「まだ若い」と驚きを語っています。
1975年の池谷さんについても、18勝を挙げて初優勝を支えた非常に頼もしい投手だったと振り返りました。
半世紀以上にわたって同じカープを支えてきた仲間だけに、その喪失感は大きいのでしょう。
池谷公二郎さんの葬儀やお別れの会は?
池谷公二郎さんの葬儀や通夜、お別れの会については、2026年10月29日夕方時点で、今回確認した主要報道では具体的な日時や会場は公表されていません。
そのため、
「葬儀は○月○日」
「一般ファンも参列できる」
などの情報は現段階では断定できません。
今後、遺族や広島東洋カープ、関係先などから発表される可能性があります。
訃報直後は不確かな葬儀情報が出回る場合もあるため、正式発表を待つ必要があります。
まとめ
広島東洋カープの元投手・池谷公二郎さんは、2026年10月29日、多発性骨髄腫のため74歳で亡くなりました。テレビ新広島、共同通信、日刊スポーツなど複数の報道機関が死去と死因を伝えています。
池谷さんは静岡商業高校から金指造船、日本楽器を経て、1972年度ドラフト1位で広島から指名され、1974年に入団しました。
1975年には18勝を挙げてカープ初のリーグ優勝に貢献。
1976年には20勝を記録し、最多勝と沢村賞、ベストナインに輝きました。
通算成績は325試合、103勝84敗10セーブ、防御率4.13。1985年の引退後は広島や巨人で投手コーチを務め、その後は野球解説者として長年カープを見守り続けました。
近年は闘病を続け、安仁屋宗八さんによると入退院も繰り返していたとされていますが、多発性骨髄腫をいつ発症・診断されたのか、具体的な治療内容などは明らかになっていません。
最後のテレビ出演の具体的な日時や、葬儀・お別れの会についても現時点では確認されていないため、新たな公式発表を待つ必要があります。
カープ初優勝を支えた沢村賞右腕として、さらに指導者、解説者として長年球界に携わった池谷公二郎さん。
安仁屋宗八さんや外木場義郎さんの言葉からも、野球に対する強い情熱と、周囲から慕われていた人柄が伝わってきます。

