
元日本赤軍メンバーの岡本公三容疑者が2026年7月23日、政治亡命先のレバノンで死亡しました。78歳でした。
岡本公三容疑者については、1972年のテルアビブ・ロッド空港事件だけでなく、どのような家庭で育ったのか、高校や大学はどこだったのか、兄・岡本武との関係も気になるところです。
岡本公三容疑者は熊本県出身で、熊本マリスト学園高校を卒業した後、京都大学への進学を目指しました。その後は鹿児島大学農学部へ進み、林業を専攻しています。
父親は元小学校校長で、兄の岡本武は1970年のよど号ハイジャック事件に加わったメンバーでした。家族や学歴、学生時代の出来事をたどると、過激派活動へ関わる前の岡本公三容疑者の姿も見えてきます。
目次
岡本公三容疑者は何をした?ロッド空港乱射事件の実行犯
岡本公三容疑者は、1972年5月30日にイスラエルのロッド国際空港で起きた銃乱射事件の実行犯3人のうちの一人です。
ロッド国際空港は、現在のベングリオン国際空港にあたります。岡本公三容疑者らは空港の到着ロビーで自動小銃を乱射し、手榴弾を使用しました。
警視庁は、一般旅行者ら約100人を無差別に殺傷した事件として岡本公三容疑者を国際手配していました。警察庁の警察白書では、24人が死亡し、76人が重軽傷を負ったと記録されています。
岡本公三容疑者だけが事件現場で生き残った
実行犯は岡本公三容疑者、奥平剛士、安田安之の3人でした。
奥平剛士と安田安之は事件現場で死亡し、岡本公三容疑者は負傷した状態でイスラエル当局に拘束されています。
日本記者クラブに掲載された当時の取材記録によると、岡本公三容疑者は偽造旅券を使っていたため、拘束直後には身元が分かっていませんでした。事件から2日後、熊本県出身の鹿児島大学農学部4年生であると判明しています。
終身刑から捕虜交換を経てレバノンへ渡った
岡本公三容疑者はイスラエルの軍事法廷で有罪となり、終身刑を言い渡されました。
1985年には、イスラエルとパレスチナ武装組織との捕虜交換によって釈放されます。その後は中東にとどまり、2000年にレバノン政府から政治亡命を認められました。
2026年7月23日、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、岡本公三容疑者がレバノンの首都ベイルート南部郊外で死亡したと発表しています。
岡本公三のプロフィール|出身地や生年月日
岡本公三容疑者は1947年12月7日生まれです。
出身地は熊本県で、人物資料では現在の熊本県葦北郡芦北町で生まれたとされています。警視庁が公開していた国際手配情報には、生年月日や身長なども掲載されていました。
岡本公三容疑者のプロフィールは、次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 岡本公三 |
| 読み方 | おかもと・こうぞう |
| 生年月日 | 1947年12月7日 |
| 出身地 | 熊本県葦北郡芦北町とされる |
| 出身高校 | 熊本マリスト学園高校 |
| 大学 | 鹿児島大学農学部 |
| 専攻 | 林業 |
| 家族 | 父親、母親、兄弟 |
| 父親の職業 | 元小学校校長 |
| 兄 | 岡本武など |
| 関与した事件 | テルアビブ・ロッド空港事件 |
| 亡命先 | レバノン |
| 死亡日 | 2026年7月23日 |
| 享年 | 78歳 |
岡本公三容疑者は熊本県芦北町出身とされる
岡本公三容疑者は、熊本県南部にある葦北郡芦北町で生まれたと伝えられています。
一方、デイリー新潮が紹介した1972年6月の朝日新聞記事には、熊本市内の小学校と中学校を経て、熊本市内の熊本マリスト学園へ進んだと記されています。
生まれた地域は芦北町とされますが、学校生活の少なくとも一部は熊本市内で送っていたことになります。
6人兄弟の末っ子だったと報じられている
AFPの配信記事を掲載したアラブニュース・ジャパンは、岡本公三容疑者が南日本の中流家庭に生まれた「6人兄弟の末っ子」だったと伝えています。
兄弟全員の氏名や詳しい経歴は公表されていませんが、長兄と次兄については、事件直後の新聞報道で紹介されました。
特に知られているのが、次兄の岡本武です。岡本武は京都大学へ進学し、後によど号ハイジャック事件に加わりました。
岡本公三の学歴|熊本マリスト学園高校から鹿児島大学へ
岡本公三容疑者の学歴として報じられているのは、熊本マリスト学園高校と鹿児島大学農学部です。
高校卒業後は、2人の兄と同じ京都大学への進学を目指しました。しかし、京都大学には合格せず、二浪を経て鹿児島大学へ入学しています。
大学では農学部に在籍し、林業を専攻していました。
出身高校は熊本マリスト学園高校
岡本公三容疑者の出身高校は、熊本市にある私立の熊本マリスト学園高校です。
デイリー新潮が紹介した事件当時の朝日新聞には、熊本市内の小中学校を経て、カトリック系の私立熊本マリスト学園を卒業したと記されています。
熊本マリスト学園高校での成績や所属していた部活動、交友関係などについては、詳しい報道がほとんどありません。
当時の新聞では「小柄で温厚な感じ」とする周辺の見方も紹介されましたが、その後に起きた事件と高校時代の性格を直接結びつける報道は出ていません。
京都大学を目指して2度受験した
岡本公三容疑者は熊本マリスト学園高校を卒業した後、京都大学を目指しました。
長兄と次兄の岡本武が京都大学に進学していたことから、兄たちと同じ大学へ進みたいという思いがあったと伝えられています。
しかし、京都大学の受験には合格せず、京都市内で二年間の浪人生活を送りました。
デイリー新潮が引用した朝日新聞の記事では、この浪人期間中に実母を亡くしたことも報じられています。
1968年に鹿児島大学農学部へ入学
岡本公三容疑者は1968年、鹿児島大学農学部へ入学しました。
1972年6月の衆議院文教委員会で、当時の文部大臣は、岡本公三容疑者が鹿児島大学農学部に在学し、林業を専攻していたと説明しています。
日本記者クラブの取材記録でも、事件当時の岡本公三容疑者は鹿児島大学農学部4年生だったとされています。
鹿児島大学では林業を専攻していた
岡本公三容疑者は農学部で林業を学んでいました。
国会会議録によると、1971年8月から11月までは朝夕の観測を担当し、連日まじめに取り組んでいたと大学側から報告されています。
事件を起こした人物という結果だけを見ると、学生時代から常に過激な活動を続けていたようにも感じられます。しかし、公的記録には、専攻の観測に熱心に取り組んでいた時期も残されています。
出国前に鹿児島大学へ休学を申し出ていた
岡本公三容疑者は1972年3月、鹿児島大学に1年間の休学を申し出ていました。
当初は代理人を通じた申請だったため、大学側はいったん受理しませんでした。その後、熊本県に住んでいた父親が大学へ呼ばれ、父親からも休学させてほしいとの申し出があったため、休学が認められています。
大学と父親は、岡本公三容疑者がアラブの武装組織に加わっていたことを当初は把握していなかったと、国会で説明されました。
岡本公三の家族|父親は小学校校長
岡本公三容疑者の家族については、父親が教育関係者だったことや、兄の岡本武がよど号事件に関与したことが報じられています。
一方、父親や母親の実名、ほかの兄弟の現在の生活などは、主要報道ではほとんど明らかにされていません。
家族の中で公的記録や新聞記事に登場するのは、元小学校校長の父親と、長兄、次兄の岡本武です。
岡本公三容疑者の父親は元小学校校長
岡本公三容疑者の父親は、小学校の校長を務めていた人物です。
1972年の国会会議録には、熊本県に住む「元小学校長をやっていた実父」と記録されています。
事件前に岡本公三容疑者が鹿児島大学へ休学を申し出た際には、大学側の求めに応じて父親が鹿児島大学を訪れています。父親は大学側に対し、岡本公三容疑者が最近は勉強に熱心に取り組んでいるとして、休学を認めてほしいと申し出ました。
父親の名前や詳しい経歴は公表されている?
岡本公三容疑者の父親については、元小学校校長だったことまでが繰り返し報じられています。
ただ、今回確認した主要報道や国会会議録には、父親の実名や勤務していた小学校名、校長を務めた時期までは記されていません。
事件後の家族の対応を伝える過去記事もありますが、家族の生活に関わる詳しい情報は限られています。
岡本公三容疑者の母親は浪人中に死亡
岡本公三容疑者の母親については、京都大学を目指して京都市で浪人生活を送っていた時期に亡くなったと報じられています。
母親の名前や職業、死亡時期の詳しい日付などは明らかになっていません。
母親に関して主要報道で伝えられているのは、岡本公三容疑者が二浪していた期間に亡くなったというところまでです。
岡本公三の兄弟|兄・岡本武はよど号事件に関与
岡本公三容疑者の兄弟で最も知られているのが、次兄の岡本武です。
岡本武は京都大学へ進学した後、共産同赤軍派のメンバーとなり、1970年のよど号ハイジャック事件に加わりました。
事件後は北朝鮮へ渡り、警察庁の資料では国際手配中のよど号グループの一人として掲載されていました。
次兄・岡本武は京都大学へ進学
岡本武は岡本公三容疑者より2歳年上で、1945年7月17日生まれです。
事件当時の朝日新聞記事によると、岡本武は熊本県立熊本高校から京都大学へ進みました。
岡本公三容疑者が京都大学を目指した背景には、長兄と次兄が同大学へ進学していたことがあったと伝えられています。
岡本武は1970年のよど号ハイジャック事件に参加
よど号事件は1970年3月31日、共産同赤軍派のメンバー9人が東京発福岡行きの日本航空351便をハイジャックした事件です。
犯行グループは乗客と乗員を人質に取り、最終的に航空機で北朝鮮へ入りました。
警察庁の資料には岡本武の氏名と生年月日が掲載され、よど号グループの国際手配者として扱われています。
岡本武の死亡説は警察庁が真偽不明としていた
よど号グループは1996年、岡本武夫妻が1988年夏ごろに土砂崩れで死亡したと発表しました。
しかし、警察庁は岡本武の死亡説について「真偽は不明」と記載しています。死亡が公的に確認された状態ではなく、国際手配資料にも氏名が残されていました。
兄・岡本武の影響はどこまで報じられている?
岡本公三容疑者が兄・岡本武から思想的な影響を受けたのではないかという見方は、事件直後から報じられていました。
1972年の衆議院文教委員会でも、岡本公三容疑者の兄がよど号事件に関与し、北朝鮮にいたことが取り上げられています。ただし、当時の文部大臣は、兄の影響があったかどうかは明らかではないと述べました。
デイリー新潮が紹介した朝日新聞の記事では、岡本家の三兄弟が共産同の思想的な影響を受けたとみられるとの記述があります。
一方で、兄弟関係だけを理由に、岡本公三容疑者がロッド空港事件へ加わったとする公的な説明は出ていません。岡本公三容疑者本人が学生時代に接した映画や政治活動も、その後の経歴に関わっています。
岡本公三容疑者はなぜ過激派活動に関わった?
岡本公三容疑者が過激派活動へ関わる過程では、兄・岡本武の存在に加え、鹿児島大学時代に接した映画や上映運動が転機として報じられています。
1971年、鹿児島大学でドキュメンタリー映画「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」が上映されました。
岡本公三容疑者はこの作品に共鳴し、上映活動を行うグループに参加した後、1972年に日本を出国しています。
映画「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」に共鳴
「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」は、若松孝二監督と足立正生監督がレバノンで撮影した作品です。
映画では、パレスチナの武装組織の活動や日常が描かれていました。
デイリー新潮によると、岡本公三容疑者は鹿児島大学で同作品を見て強く共鳴し、各地で上映する「赤バス隊」の活動に参加しました。
1972年に日本を出国してベイルートへ
岡本公三容疑者は1972年に日本を出国し、レバノンのベイルートへ渡りました。
現地ではPFLPの施設で自動小銃の射撃訓練を受け、その後、奥平剛士、安田安之とともにロッド空港事件を実行しました。
岡本公三容疑者の歩みには、兄の政治活動、大学時代の上映運動、PFLPとの接点など、複数の出来事が重なっています。家族構成だけで事件への参加理由を説明できる資料は出ていません。
岡本公三の生い立ち・学歴・家族で分かっていること
岡本公三容疑者は1947年12月7日、熊本県葦北郡芦北町で生まれたとされています。
熊本市内の小中学校を経て熊本マリスト学園高校を卒業し、京都大学を目指して二浪した後、1968年に鹿児島大学農学部へ入学しました。大学では林業を専攻し、朝夕の観測に熱心に取り組んでいた時期も記録されています。
家族については、6人兄弟の末っ子と報じられ、父親は元小学校校長でした。長兄と次兄は京都大学へ進み、次兄の岡本武は1970年のよど号ハイジャック事件に加わっています。
岡本公三容疑者は大学時代に映画「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」に共鳴し、上映活動への参加を経て中東へ渡りました。
その後、1972年のテルアビブ・ロッド空港事件に実行犯として加わり、イスラエルで終身刑を受けました。捕虜交換による釈放とレバノンへの政治亡命を経て、2026年7月23日に78歳で死亡しています。

